観心寺へ 1

大阪の河内長野市へやってきました。

長い間大阪に住んでいますが河内長野とは疎遠でして、秘境に近いイメージがあります。歩きながら見てみましょう。ちょっと遠いですが、目指すは観心寺です。

 

綺麗な渓流に沿って歩き、高級住宅街の丘陵地帯を越え、観心寺に到着しました。こちらも桜井識子さんの本に紹介されているお寺です。景色を楽しみながら来たので苦も無く到着しました。当然ながら秘境ではありませんでしたが、自然の風景がたくさん残っている綺麗な町でして、貴重な場所だと思いました。

 

門の手前の駐車場の前を歩いている時、「こちらを見よ」というイメージが入ってきたので横を見ると、楠木正成公の像が(大げさではなく本当に)視界いっぱいに入ってきました。「お、おぉー! 正成様!」 と思わす感動しました。

 

渋くてカッコいいなぁ~、正成公に遭えたし、今日はもうこれで満足したから帰ってもいいかな・・・。

 

いやいや、せっかく来た事だし参拝しなければ。拝観料を払ってちょっと行ったところに「楠公学問所」がありました。そうでした、河内長野は楠氏の地元だったのです。

 

学問所の向かいには池があり、大きな鯉がたくさん泳いでいました。池の真ん中は島になっていて「後村上天皇」の文字が見えます。

 

こちらのお堂には鬼子母神が祀られているそうでして、観心寺の守護神なのだそうです。

 

本堂です。靴を脱いで上がらせてもらい、ご本尊の如意輪観音の前に正座してご挨拶しました。

 

こちらは首塚とかが有る方ですね。行ってみましょう。

「むなしくなっても家族はさぞ会いたかろう、帰してやってくれんか」湊川の戦いの後、足利尊氏のこの言葉で首が戻って来たそうです。写真は獲りませんでした。

 

鎌倉時代を感じさせる建物がありました。幽玄な感じがします。

 

楠木氏はこの辺りで商工業者を束ねる棟梁的な立場だったようです。物流業者と関りが深かった為、社会情勢などの情報収集に長けていたんだと思います。能楽や忍者との関りも有ったとされています。千早城の戦いが後世の上田城の戦いと類似しているので、真田氏へ何かつながりが有るのかも知れません。中央政権からは悪党とされていた楠木氏ですが、それは庶民の側に立つ武将だった、という事なのかも知れません。

 

観心寺役行者が開祖だとされていますが、金剛山が近い事からこの辺は修験道と関りが深い場所だったと思います。もしかしたら全国を歩き回る修験者とコミュニケーションを重ねることでこの地域の人たちは世の中を俯瞰して見ることができたのかも知れません。

 

つづく